Agape World
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鶴亀彰

 

アガペ・ワールドとの出会い

 

アガペ・ワールドと私が出会ったのは2003年の9月でした。全くの偶然でした。カリフォルニアに住んでいる私は日本の情報を得るために、インターネットを通じて日本のいくつかの新聞を読んでいますが、その一つが朝日新聞社が発行するインターネット版新聞、アサヒ・コムでした。ある日、何気なく読んでいたら、一つの書籍紹介の記事が目に入りました。「アガペ 心の癒しと和解の旅」という題名の本でした。出版社はフォレストブックスというところで、著者はロンドン在住の恵子・ホームズさんという人でした。

 

1人の家庭の主婦が引き起こした日本と元英国人捕虜たちとの感動的な物語が、「憎しみからは憎しみしか生まれません。過去の過ちを謝罪し、赦し合い、和解をして初めて、心の平安を得ることができるのです」の思いと共に記されていました。 私は中学生の頃から第2次世界大戦、中でも太平洋戦争に強い関心を持っていました。

その最大の理由は私が3歳の時にその戦争で父を喪ったからです。高校・大学時代を通じても戦争関連の映画やテレビはほとんど観、本もたくさん読みました。特に1966年、25歳の時に、日本企業の駐在員として米国に渡ってからは毎年12月7日に「リメンバー パールハーバー」の掛け声の下でテレビや新聞で繰り返される報道を通じ、日本では観ることのできなかった米国側の当時の記録写真や映像などを観る機会がありました。

米国での生活を通じて「真珠湾攻撃生き残りの会」や「バターン・コレヒドール米国防衛兵士の会」の会員との交流もありました。いずれも戦争が終結し数10年が経った後も戦時中の苦しみの記憶に悩まされ、日本への怒りや憎しみの思いを抱いている人々でした。 長年の勉強を通じ、私は国と国との戦争が、数え切れないほどの数の個人に与えた被害や傷の大きさを知りました。

戦争は人々を狂気に駆り立てます。普通では考えられない残虐な行為や悲惨な事実を学びました。一夜にして10万人以上の市民が殺された東京空襲や広島や長崎での原爆被害など戦争被害者としての日本人の歴史と同時に、中国や朝鮮半島、フィリピンなどアジアの国々や太平洋の島々などでの戦争加害者としての日本軍の歴史も知りました。日本人の1人としてその両方の事実を心から悲しく、痛ましく思っていました。 

そしてたまたま私は国際ビジネスコンサルタントとしての仕事をしばらく休止し、妻と一緒に2003年夏から、ほとんど記憶のない戦死した父と父が乗っていた潜水艦を求める旅を始めていました。そこでこのアガペとの出会いが起きたのです。泰緬鉄道の建設や日本などでの強制労働に従事した英国やオランダ、オーストラリア等の兵士たちの苦難の物語は映画や本で学んでいただけに、この著書に強い関心を持ちました。 

すぐインターネットの検索エンジン、グーグルで調べたら、アガペワールドという同組織のウェブサイトが見つかりました。そこにはアガペ・ワールドの活動の内容や、同組織が主催している「心の癒しと和解の旅」に参加した人々の証言が掲載されていました。一読して強く胸を打たれました。そこには何十年も日本や日本人に対して激しい怒りや憎しみや恨みを持ち続けていた人々が、信じられないような心の転換を果たした事実が当人たちや家族の言葉で記されていました。

昭和天皇の訪英の際に日の丸の旗を焼いて元捕虜たちのヒーローとなった人が、アガペワールドと接し、嫌い抜いていた日本を訪れ、心が癒やされていました。ジャック・カプランさんと言いますが、彼は帰国するとすぐに日本からの高校生などをホストファミリーとして積極的に受け入れたりするようになり、日本への新たな親しみを育んでいました。

長年の日本への憎しみや捕虜生活中の恐怖の記憶から身体もこわばり車椅子生活だったハリー・ブラントさんという人が日本への旅で日本人を赦し、日本人と友達になったことによって、長年の孤独と苦しみから解放され、喜びを感じられるようになりました。その変化のために硬い身体が柔らかく自由になったそうです。そして車椅子が必要で無くなったという奇跡的な話もありました。

それらの元捕虜の人々や同行した家族の証言の一つ一つを読みながら、彼らの長年の苦労を思い、それから解放された喜びを思い、涙が止まりませんでした。そしてアガペの活動に心からの賛同と共感を覚えました。そして感謝の思いを持ちました。

 

恵子・ホームズさんとの交流

アガペ・ワールドの活動とそれがもたらしている元捕虜たちと日本人の新しい友情に感動した私は著者であり、アガペ・ワールドの代表である恵子・ホームズさんのメールアドレスを調べ、メールを送りました。インターネットの素晴らしさです。全く見ず知らずの私に彼女から折り返し返事が届きました。2003年9月22日のことです。それからロンドン在住の彼女とロサンゼルス郊外に住む私とのメールのやりとりが始まりました。

私は2003年の秋にオランダを訪問する予定があったのですが、「もしイギリスを訪問なさる機会があれば、ぜひお立ち寄り下さい」との優しい言葉も頂きました。 結局その時は出会いは実現しなかったのですが、翌年の2004年1月に恵子さんと息子さんのダニエル君がロサンゼルスを訪問することになりました。

こちらにあるキリスト教関係者からの招待を受け、アガペの活動について講演を行うためでした。とても素晴らしい出会いでした。2004年1月20日、ロサンゼルス国際空港で出迎えてからの数日間、初対面とは思えないほどお互いに寛ぎ、とても楽しい日々を過ごす事ができました。 

またこれも偶然なのですが、たまたま同じ時期にデュエイン・ハイジンガーという「バターン・コレヒドール米国防衛兵士の会」の事務局長をしている友人が私の家に宿泊していました。彼も私と同じように子供の時にフィリピンで日本軍の捕虜になった父を喪い、還暦を過ぎてからその父の死に至るまでを調査し、それを1冊の本「Father Found(父発見)」に纏めた人でした。

彼の父親は悪名高い「バターン死の行進」をフィリピンで体験し、その後、「地獄船」と呼ばれた日本軍の輸送船で日本での強制労働に送られる途中、船が台湾の港に停泊中にマラリヤや栄養不良のために死んでいました。デュエインは米海軍士官として横須賀に滞在中、海上自衛隊や日本人との友情を体験したことから、日本人の優しさや素晴らしさを知り、元米人捕虜たちと日本人の和解を強く望んでいる人でした。恵子さんとデュエイン、2人とも敬虔なクリスチャンで、英国と米国の違いはあるものの、同じ元捕虜たちと日本人との和解を望む点でも大いに心が通じたようでした。恵子さんとダニエル君のロサンゼルス滞在中、私はアッシー君として運転手役を務めました。広大な上に電車やバスなどの公共交通機関が発達していないロサンゼルスでは車がないとにっちもさっちも行きません。

そのお返しというわけではないでしょうが、恵子さんから一つのご招待を頂きました。「3月の癒しと和解の旅の集いに参加しないか」とのことでした。たまたま私は3月に訪日し、東京にも立ち寄る予定でした。そしてわずか2日間だけでしたが、元捕虜の方々やそのご家族の皆さんと一緒に過ごしました。親しく交流することができました。戦争1代目の方もですが、その子供さんたち戦争2代目との出会いも嬉しいでした。「心の癒しと和解の旅」がもたらす奇跡に近い和解と友情を私は実際に目にすることができました。その上に私には一つの大きな出会いがありました。1人の元英国人捕虜の方と知り合い、そしてその方の協力により、私は更なる奇跡を体験することになるのです。

 

サー・ピーター・アンソンとの出会い

2004年3月の旅の参加者の中に、サー・ピーター・アンソンとレディ・エリザベス・アンソンというご夫妻がいらっしゃいました。サー・アンソンは男爵で元英海軍士官でした。あの有名な戦艦プリンス・オブ・ウェールズに乗っている時に日本軍の攻撃を受け、海に投げ出されました。重巡洋艦エクゼターに救助され、そのまま同艦の乗組員となったものの、同艦も 1942年3月1日、スラバヤ沖海戦で日本軍に撃沈され、ついには日本軍の捕虜となりました。

それから終戦まで3年半という長い間、セレベス島(現在のスラウェシ島)のマッカサルにあった元オランダ軍兵舎を改造した捕虜収容所で、英国人、オランダ人、米国人捕虜と一緒に屈辱の日々を過ごされたそうです。代々爵位を持つ誇りある家系に生まれながら、マッカサルの捕虜収容所では人間以下の扱いを受けた苦しみはずっと消えることはなかったそうです。

 

しかしアガペ・ワールドと出会い、心の癒しと和解の旅を通じて、旅の最初から最後まで誠心誠意尽くしてくれるアガペ・ワールドの日本人ボランティアの皆さんの優しさに触れて、彼の心の深い傷も癒されていったそうです。 大柄のどっしりした身体に白髪、年齢にしてはピンクの若々しい顔色で、かけている金縁の眼鏡が少し小さく見えるほど、顔は豊かで大きい方でした。心の奥底に潜んでいた過酷な捕虜体験の苦しみを感じさせない穏やかな表情で、話のわかる好々爺という感じの方でした。彼のスピーチは苦しい捕虜生活中でもユーモアを忘れない英国人気質を思い出させ、何度も会場の笑いを誘いました。

 

そのサー・アンソンさんの雰囲気や、その横でにこやかな表情のレディ・アンソンの優しさに誘われ、私は初対面にもかかわらず、一つのずうずうしいお願いをしました。私の横にいた妻は私のその無遠慮さに驚いたそうです。「サー・アンソン、もし出来れば一つお願いしたいことがございます。私の父は日本帝国海軍の潜水艦、伊号第166の機関長でしたが、1944年7月17日にマレー半島とスマトラ島の間にあるマラッカ海峡で、英国潜水艦テレマカスに撃沈され、戦死しました。

 

出来ればその戦いの詳しい事情を知りたいと思っています。同艦はすでに1961年にスクラップ処理されていますが、もし可能ならば当時の記録などを入手出来ないかと望んでいます」と私は一気に伝えました。最初は私の突然のお願いに驚いた表情でしたが、すぐににっこり笑い、「判りました。英国に戻り次第、すぐに調べて見ましょう」との返事でした。

 

東京でのその日から1ヶ月ほど経った4月28日のことです。ロサンゼルスに戻っていた私のもとにサー・アンソンからのメールが届きました。

 

衝撃的なメールでした。「Dear Aki, Success at last! 」という冒頭の文が目に入りました。そして「潜水艦テレマカスのキング艦長と連絡が取れました。彼はまだ健在で、現在アイルランドのオーランモアのお城にお住まいです。現在94歳です」とありました。すぐには信じられない思いでした。私の父を殺した仇がまだ生きていたのです。 

 

それから現在までの話は長い話になります。現在まで私と妻はアイルランドを3回訪れました。この原稿を書いている現在、キング艦長は101歳になります。今ではあたかも親子のように親しくしています。

2006年7月にはキング艦長と一緒にオランダを訪問しました。オランダには私の父の乗っていた伊166潜水艦がボルネオ沖で撃沈したオランダの潜水艦K-16の追悼碑があり、日英蘭3ヵ国の潜水艦家族で平和を祈る植樹祭をオランダ海軍と共に行いました。キング艦長の娘さんやお孫さんとは一緒に日本旅行も楽しみました。今では本当に親しい友人です。

 

これらのことは全て2004年3月の東京での心の癒しと和解の旅でのサー・アンソンとの出会い、それをもたらした恵子・ホームズさんとの2004年1月のロサンゼルスでの出会い、そして2003年9月のアガペ・ワールドとの出会いから始まったことです。私のアガペ・ワールドへの感謝の思いは尽きません。その後、「アガペ 心の癒しと和解の旅」を百冊購入し、友人・知人、中でも日本から訪れる若者たちに読んで貰っています。彼らにも今も残る戦争の傷の深さ、広さ、大きさ、長さを知って貰い、癒しと和解と友情と平和の行動に参加して欲しいと願っています。

2011年9月記

 

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